安土桃山時代をものすごーくざっくり解説
みなさんこんにちは那津です!
今日は当ブログで一番人気のざっくり解説シリーズ第3弾「安土桃山時代編」をお届けしたいと思います!
各時代を説明する記事はたくさんありますが、内容が濃いものが多く、ある程度歴史を理解している人ではないと難しいと思います
ざっくり解説シリーズでは歴史をあまり知らなくてもこの時代ってどんな感じだったのかというのがわかるようにものすごーくざっくりと説明をしますのでぜひ最後までご覧ください!
また第1弾「鎌倉時代編」第2弾「室町時代編」を見ていない方はぜひ見てください!
安土桃山時代の概要
安土桃山時代というものをざっくり分類すると
(1)鉄砲とキリスト教の伝来
(2)織田信長の時代
(3)豊臣秀吉の時代
の3つに分けることができます
つまり安土桃山時代ってどんなことがあった??と聞かれたら
鉄砲とキリスト教が伝来して織田信長と豊臣秀吉が天下統一を目指したといえばなんとなく正解なんです笑
それではそれぞれ簡単に説明をしていきたいと思います!
なお安土桃山時代の始まりは室町幕府が滅亡した年(1573年)からといわれており、(1)と(2)の半ばまでは室町時代という時代区分になりますが、安土桃山時代は応仁の乱から始まる戦国時代の全盛期みたいな立ち位置をしているので戦国時代(安土桃山時代)みたいなイメージで見てもらえればと思います!
(1)鉄砲とキリスト教の伝来
①鉄砲伝来
1543年戦国の動乱がまさに最高潮を迎えるようとするころ、種子島(鹿児島県)に大きな外国船が到着しました
その船に乗っていたポルトガル人の商人が、鉄砲という驚異的な性能をもつ火器を持っていて、年若い島の領主種子島時堯(ときたか)はこの新兵器に興味を持ち、大変高価であったのにも関わらず2挺購入しました
なぜ2挺なのかというと1挺は保存用、1挺は分解用として買ったからです!
この一連の流れを鉄砲伝来といいます!
鉄砲という新兵器が伝わったことにより戦い方は大きく変化するのでした
②キリスト教伝来
1549年イエズス会のフランシスコ=ザビエルによってキリスト教は日本に伝来しました
なぜ日本に伝来することになるかというと時は16世紀、ヨーロッパで宗教改革が起きました
宗教改革を簡単にいうとキリスト教のカトリック教会の考え方に異を唱えた人たちが反発を起こし、プロテスタント教会という新しい宗派を作ってしまった出来事です!
それによってカトリックの力は弱くなってしまったので、新たな信者を獲得するべく日本にやってきました
キリスト教が伝来することによって新たな技術を獲得できたりと織田信長など様々な大名が保護しますが、最終的には豊臣秀吉の時代に宣教師は追放され、江戸時代になると絵踏などで完全にキリスト教を排除することになりました
(2)織田信長の時代
織田信長の時代でまず覚えておくべきことは
①室町幕府滅亡
③楽市楽座
の4つです!
それぞれ簡単に説明していきます!
①室町幕府滅亡
1573年信長は15代将軍足利義昭を京都から追放することによって室町幕府を滅ぼしました
そもそも義昭は1568年に信長の手を借りて将軍になったわけですが、次第に将軍の権力を回復させよう思うようになり、結果として信長に敵対したため追放されてしまいました
応仁の乱の時点で将軍の権威というものは完全に落ちていたので、100年経って今さら取り戻そうといっても無理ですよね笑
Wikipediaより引用 長篠の戦い - Wikipedia
みなさんこの写真を見たことはありませんか?
1575年三河(愛知県)の長篠城というところで行われた長篠の戦いを描いたものです
この戦いは織田・徳川連合軍と武田軍(武田勝頼)が激突しました!
あれ、武田軍っていったら武田信玄じゃないの?と思う方もいるかもしれません
実はもともと信玄が大将だったのですが、その道中に亡くなってしまいます
だから信玄の息子である勝頼が大将として戦ったのです!
この戦いの注目ポイントは鉄砲を有効活用したところです!
鉄砲が伝来し30年近くたって大名はみな鉄砲を手に入れることができましたが、上手く使いこなすことができていませんでした
なぜなら昔の鉄砲は1発ずつしか打つことができず、弾を詰める時間にものすごい時間がかかってしまっていたからです
しかしその弱点を克服したのが信長なのです!
信長は三段構えという方法を取りました
三段構えとは各ポイントに鉄砲隊を三列で設置し、打ったら一番後ろの列にいき弾を込めるという方法です
このようにすることによって常に弾を打ち続けることができるのです!
頭がいいですよね笑
この戦いを通して武田軍よりも強いことが判明し、天下統一へまた一歩近づきました
③楽市楽座
信長の城下町で行った政策として有名なのが、楽市令(楽市楽座)です!
楽市楽座を簡単に説明すると座という同業組合を廃止しました
座はもともと販売独占権などを持っていたため商人はなんでも売れたわけではありませんでした
しかし、座が廃止されたことによって誰でも自由に商売をすることができ、また楽市令の他に信長は関所を廃止したため、より人が行き来しやすくなり、城下町は発展をしました
天下統一までもう一歩のところで突然終わりを迎えてしまいます
1582年毛利軍と戦っていた秀吉に加勢に行く道中、泊まっていた本能寺にて家臣である明智光秀に奇襲をされ、結果として信長は自害をしました
光秀が謀反を起こしたのには怨恨説・保身説・政権奪取説など色々ありますが、その実態は未だわかっていません
この一連の話からすると光秀は悪者のように思えますが、最近の研究では実はいい人だったのではないかという説もあるんですよ笑
こうして信長の人生は天下統一を目の前終わってしまいました
その後を継ぐのが家臣である秀吉だったのです
(3)豊臣秀吉の時代
豊臣秀吉の時代でまず覚えておくべきことは
①太閤検地
②刀狩令
③天下統一と朝鮮侵略
の3つです
それぞれ説明していきます!
①太閤検地
1582年、豊臣秀吉は全国的規模で検知を実施しました
これを太閤検地といいます!
検知というのは何かというと土地の大きさや取れる米の量などの土地調査を行うことです!
もともとこの時代より前も検知というのは行われていましたが、指出検地という方法を用いていました
指出検地とは戦国大名が武士や寺社、村落に対して面積や収穫量などを報告させることですが、自己申告制であるため過少申告が多かったことや、統一基準がなく調査が曖昧などという問題がありました
そこで秀吉は京升という統一基準を設け、また検地奉行という調査隊を派遣して検地を行いました
このように指出検地での問題を克服して統一的な検地を行うことで、収入源を確実知ることや、農民に課す年貢を確定させることができるようになりました!
②刀狩令
刀狩令とは簡単にいうと農民たちの武器を没収することです!
これを行う主な目的としては農民に反発を起こさせないためですが、ここまでにするのには秀吉の過去が関係しています
実は秀吉はもともと百姓だったんです!
以外ですよね笑
秀吉は百姓から武士のトップへとまさに下剋上を体現したような人生を送ってきました
しかしそれができたのは百姓でも武器を持つことが許されていたためです
自分と同じような道を進むような人がでないように刀狩令を出したんですね!
ちなみに突然武器を没収すると言うと反発されるので、方広寺の大仏を作るための材料とするという名目で没収したんですよ笑
太閤検地と刀狩を通して秀吉はと兵農分離をすることを目指していました
兵農分離とは兵(武士)と農(農民)の立場を明確化させることです
武士が支配階級で農民は米を作るといった圧倒的な支配関係を構築することによって下剋上の風潮というものをなくそうとしていたのですね!
③天下統一と朝鮮侵略
1590年、兵農分離政策や難攻不落と言われた北条氏の小田原城を攻め落としたことによりついに秀吉は天下統一をしました!
日本を全て手に入れたら次はどこにいきますか?
そう、世界ですよね!
秀吉は明に進出しようとしていて、その道中である朝鮮に入貢と明への案内を求めましたが、それに応じなかったので侵略を行いました
文禄の役と慶長の役というその2回の侵略を合わせて朝鮮侵略といいます!
結果として2回の侵略は失敗し、秀吉の死によって終わりを迎えることになります
この侵略によって秀吉軍は戦力を大きく失うこととなってしまい、最終的には関ヶ原の戦いで徳川家康に負けてしまいます
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は安土桃山時代をざっくりと解説してみました!
安土桃山時代にはもっとたくさんの出来事があるのでこれだけで全てを理解できたとは言えませんが、おおまか流れを知っていることによって細かい内容も整理しやすくなるのではないかと思います!
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
ざっくり解説シリーズは定期的に更新をしていくつもりなので今後もぜひみてください!
またざっくり解説シリーズ「鎌倉時代編」「室町時代編」をまだ見ていない方を下のリンクからご覧ください!