三種の神器って何?詳しく解説します
こんにちは那津です!
みなさんは勉強をするにあたって大事な3つのものを勉強の三種の神器と表現するなど○○の三種の神器と言ったことはありませんか?
おそらく一度くらいは使ったことがあるのはないかと思います
ではこの三種の神器という言葉、もともとは何を表しているのか知っていますか?
今回は三種の神器と呼ばれるもの何か、なぜ呼ばれているのかについて説明をしていきたいと思います!
三種の神器とは
三種の神器とは何かを一言でいうと天皇の証となる八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことです!
よくわからないと思うのでそれぞれ解説をしていきたいと思います!
八咫鏡(やたのかがみ)
八咫鏡を一言でいうと文字通りですが銅鏡のことです!
みなさん天岩戸(あまのいわと)神話は聞いたことはありますか?
簡単にこの神話について説明すると、あるときアマテラスオオミカミの弟であるスサノオノミコトが高天原(今でいうところの天界)に来た時に作物を荒らすなど数々の悪行を行いました
そのことに対してアマテラスオオミカミは自分のせいでこうなってしまったのだと酷く後悔し、天岩屋戸(あまのいわやど)というところに隠れてしまいました
アマテラスオオミカミは太陽神であり、その神様が岩に隠れてしまったので世界中は闇に包まれ、その闇に吸い寄せられるように悪神、悪霊が増え、災いが絶えなくなってしまいました
困り果てた八百万の神々はどうすれば岩からでてきてくれるか考えた結果、その岩の前でパーティーをすることにしました
アメノウズメが踊ってみせたりみんなが騒いでいるうちにアマテラスオオミカミは岩の外の様子が気になってしまい、最終的に岩から出てきました
そうして、世界にまた光と平和が戻りました
このお話が天岩戸神話です!
この話においてパーティーをするときに真坂樹(まさかき)と呼ばれる木の中枝にかけられた鏡のことを八咫鏡といいます!
ちなみに八咫というのは巨大っていう意味です!
つまり八咫鏡というのは巨大な鏡っていう意味なんです笑
一般公開はされていないので本当にあるのかは分かりませんが笑
八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)
八尺瓊勾玉を一言でいうと文字通りですが勾玉のことです!
これの由来も八咫鏡と同じで天岩戸神話のパーティーにおいて真坂樹の上段にかけられた勾玉のことを八尺瓊勾玉といいます!
勾玉というのはとても小さいイメージがありますが、これも八咫鏡と同様で八坂というのが大きいという意味で、八坂瓊勾玉というのは巨大な勾玉っていう意味なんです笑
八坂瓊勾玉は現在皇居にあるとされています
草薙剣(くさなぎのつるぎ)
草薙剣は一言でいうと文字通り剣という意味で、別名天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれたりします
この剣は簡単にいうとスサノオノミコトがヤマタノオロチを倒したときにゲットしたものでした
ヤマタノオロチを倒したときの話は有名ですが、簡単にこの話を説明するとヤマタノオロチに酒を大量に飲ませ、弱ったときに切り倒しました
酒で酔わせて倒すなんて面白いですよね笑
ちなみに大蛇のいるところが常に雲気があったから天叢雲剣と呼ばれたりするんですよ
高度経済成長期の三種の神器
三種の神器の本来の意味について説明をしましたが、みなさんは高度経済成長期に三種の神器、新三種の神器って言葉を聞いたことはありませんか?
ここではこの時期における三種の神器について簡単に説明したいと思います!
電化元年と呼ばれた1953年以降、家庭に電化製品が急速に普及しました
その中でも代表的な三つの家電製品である白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫を神話で皇位継承の象徴と伝える宝物にちなんで三種の神器と呼ばれていました!
ちなみにこの時期は神武景気や岩戸景気、いざなぎ景気などというように神話に由来する言葉が多いですが、この言葉たちが深く浸透したのは戦前神話について学校でしっかりと学んでいたからなんですよ!
また1960年代後半から70年にかけて普及したカラーテレビ・クーラー・カー(自動車)を新三種の神器と呼ばれていました!
新三種の神器は別名それぞれの頭文字をとって3Cと呼ばれたりもします
どちらかといったら3Cの方が聞きなじみがあるのではないかと思います!
つまり高度経済成長期における三種の神器というのは現在と同じような使われ方をしていました!
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は三種の神器という言葉について説明をしました!
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
私事ですが、ここ最近忙しくてブログを更新することができていませんでした
一旦落ち着いたので、ときどきお休みすることもあるかもしれませんが、できる限り毎日更新をしていきたいと思いますので、ぜひみてください!
安土桃山時代をものすごーくざっくり解説
みなさんこんにちは那津です!
今日は当ブログで一番人気のざっくり解説シリーズ第3弾「安土桃山時代編」をお届けしたいと思います!
各時代を説明する記事はたくさんありますが、内容が濃いものが多く、ある程度歴史を理解している人ではないと難しいと思います
ざっくり解説シリーズでは歴史をあまり知らなくてもこの時代ってどんな感じだったのかというのがわかるようにものすごーくざっくりと説明をしますのでぜひ最後までご覧ください!
また第1弾「鎌倉時代編」第2弾「室町時代編」を見ていない方はぜひ見てください!
安土桃山時代の概要
安土桃山時代というものをざっくり分類すると
(1)鉄砲とキリスト教の伝来
(2)織田信長の時代
(3)豊臣秀吉の時代
の3つに分けることができます
つまり安土桃山時代ってどんなことがあった??と聞かれたら
鉄砲とキリスト教が伝来して織田信長と豊臣秀吉が天下統一を目指したといえばなんとなく正解なんです笑
それではそれぞれ簡単に説明をしていきたいと思います!
なお安土桃山時代の始まりは室町幕府が滅亡した年(1573年)からといわれており、(1)と(2)の半ばまでは室町時代という時代区分になりますが、安土桃山時代は応仁の乱から始まる戦国時代の全盛期みたいな立ち位置をしているので戦国時代(安土桃山時代)みたいなイメージで見てもらえればと思います!
(1)鉄砲とキリスト教の伝来
①鉄砲伝来
1543年戦国の動乱がまさに最高潮を迎えるようとするころ、種子島(鹿児島県)に大きな外国船が到着しました
その船に乗っていたポルトガル人の商人が、鉄砲という驚異的な性能をもつ火器を持っていて、年若い島の領主種子島時堯(ときたか)はこの新兵器に興味を持ち、大変高価であったのにも関わらず2挺購入しました
なぜ2挺なのかというと1挺は保存用、1挺は分解用として買ったからです!
この一連の流れを鉄砲伝来といいます!
鉄砲という新兵器が伝わったことにより戦い方は大きく変化するのでした
②キリスト教伝来
1549年イエズス会のフランシスコ=ザビエルによってキリスト教は日本に伝来しました
なぜ日本に伝来することになるかというと時は16世紀、ヨーロッパで宗教改革が起きました
宗教改革を簡単にいうとキリスト教のカトリック教会の考え方に異を唱えた人たちが反発を起こし、プロテスタント教会という新しい宗派を作ってしまった出来事です!
それによってカトリックの力は弱くなってしまったので、新たな信者を獲得するべく日本にやってきました
キリスト教が伝来することによって新たな技術を獲得できたりと織田信長など様々な大名が保護しますが、最終的には豊臣秀吉の時代に宣教師は追放され、江戸時代になると絵踏などで完全にキリスト教を排除することになりました
(2)織田信長の時代
織田信長の時代でまず覚えておくべきことは
①室町幕府滅亡
③楽市楽座
の4つです!
それぞれ簡単に説明していきます!
①室町幕府滅亡
1573年信長は15代将軍足利義昭を京都から追放することによって室町幕府を滅ぼしました
そもそも義昭は1568年に信長の手を借りて将軍になったわけですが、次第に将軍の権力を回復させよう思うようになり、結果として信長に敵対したため追放されてしまいました
応仁の乱の時点で将軍の権威というものは完全に落ちていたので、100年経って今さら取り戻そうといっても無理ですよね笑
Wikipediaより引用 長篠の戦い - Wikipedia
みなさんこの写真を見たことはありませんか?
1575年三河(愛知県)の長篠城というところで行われた長篠の戦いを描いたものです
この戦いは織田・徳川連合軍と武田軍(武田勝頼)が激突しました!
あれ、武田軍っていったら武田信玄じゃないの?と思う方もいるかもしれません
実はもともと信玄が大将だったのですが、その道中に亡くなってしまいます
だから信玄の息子である勝頼が大将として戦ったのです!
この戦いの注目ポイントは鉄砲を有効活用したところです!
鉄砲が伝来し30年近くたって大名はみな鉄砲を手に入れることができましたが、上手く使いこなすことができていませんでした
なぜなら昔の鉄砲は1発ずつしか打つことができず、弾を詰める時間にものすごい時間がかかってしまっていたからです
しかしその弱点を克服したのが信長なのです!
信長は三段構えという方法を取りました
三段構えとは各ポイントに鉄砲隊を三列で設置し、打ったら一番後ろの列にいき弾を込めるという方法です
このようにすることによって常に弾を打ち続けることができるのです!
頭がいいですよね笑
この戦いを通して武田軍よりも強いことが判明し、天下統一へまた一歩近づきました
③楽市楽座
信長の城下町で行った政策として有名なのが、楽市令(楽市楽座)です!
楽市楽座を簡単に説明すると座という同業組合を廃止しました
座はもともと販売独占権などを持っていたため商人はなんでも売れたわけではありませんでした
しかし、座が廃止されたことによって誰でも自由に商売をすることができ、また楽市令の他に信長は関所を廃止したため、より人が行き来しやすくなり、城下町は発展をしました
天下統一までもう一歩のところで突然終わりを迎えてしまいます
1582年毛利軍と戦っていた秀吉に加勢に行く道中、泊まっていた本能寺にて家臣である明智光秀に奇襲をされ、結果として信長は自害をしました
光秀が謀反を起こしたのには怨恨説・保身説・政権奪取説など色々ありますが、その実態は未だわかっていません
この一連の話からすると光秀は悪者のように思えますが、最近の研究では実はいい人だったのではないかという説もあるんですよ笑
こうして信長の人生は天下統一を目の前終わってしまいました
その後を継ぐのが家臣である秀吉だったのです
(3)豊臣秀吉の時代
豊臣秀吉の時代でまず覚えておくべきことは
①太閤検地
②刀狩令
③天下統一と朝鮮侵略
の3つです
それぞれ説明していきます!
①太閤検地
1582年、豊臣秀吉は全国的規模で検知を実施しました
これを太閤検地といいます!
検知というのは何かというと土地の大きさや取れる米の量などの土地調査を行うことです!
もともとこの時代より前も検知というのは行われていましたが、指出検地という方法を用いていました
指出検地とは戦国大名が武士や寺社、村落に対して面積や収穫量などを報告させることですが、自己申告制であるため過少申告が多かったことや、統一基準がなく調査が曖昧などという問題がありました
そこで秀吉は京升という統一基準を設け、また検地奉行という調査隊を派遣して検地を行いました
このように指出検地での問題を克服して統一的な検地を行うことで、収入源を確実知ることや、農民に課す年貢を確定させることができるようになりました!
②刀狩令
刀狩令とは簡単にいうと農民たちの武器を没収することです!
これを行う主な目的としては農民に反発を起こさせないためですが、ここまでにするのには秀吉の過去が関係しています
実は秀吉はもともと百姓だったんです!
以外ですよね笑
秀吉は百姓から武士のトップへとまさに下剋上を体現したような人生を送ってきました
しかしそれができたのは百姓でも武器を持つことが許されていたためです
自分と同じような道を進むような人がでないように刀狩令を出したんですね!
ちなみに突然武器を没収すると言うと反発されるので、方広寺の大仏を作るための材料とするという名目で没収したんですよ笑
太閤検地と刀狩を通して秀吉はと兵農分離をすることを目指していました
兵農分離とは兵(武士)と農(農民)の立場を明確化させることです
武士が支配階級で農民は米を作るといった圧倒的な支配関係を構築することによって下剋上の風潮というものをなくそうとしていたのですね!
③天下統一と朝鮮侵略
1590年、兵農分離政策や難攻不落と言われた北条氏の小田原城を攻め落としたことによりついに秀吉は天下統一をしました!
日本を全て手に入れたら次はどこにいきますか?
そう、世界ですよね!
秀吉は明に進出しようとしていて、その道中である朝鮮に入貢と明への案内を求めましたが、それに応じなかったので侵略を行いました
文禄の役と慶長の役というその2回の侵略を合わせて朝鮮侵略といいます!
結果として2回の侵略は失敗し、秀吉の死によって終わりを迎えることになります
この侵略によって秀吉軍は戦力を大きく失うこととなってしまい、最終的には関ヶ原の戦いで徳川家康に負けてしまいます
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は安土桃山時代をざっくりと解説してみました!
安土桃山時代にはもっとたくさんの出来事があるのでこれだけで全てを理解できたとは言えませんが、おおまか流れを知っていることによって細かい内容も整理しやすくなるのではないかと思います!
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
ざっくり解説シリーズは定期的に更新をしていくつもりなので今後もぜひみてください!
またざっくり解説シリーズ「鎌倉時代編」「室町時代編」をまだ見ていない方を下のリンクからご覧ください!
なんで建国記念日じゃなくて建国記念“の“日なの?建国記念の日について詳しく解説します
こんにちは那津です!
明日は建国記念の日でお休みですね!
土曜日なのであまり関係ないかもしれませんが笑
みなさんはなんで建国記念日ではなく建国記念“の“日と言うのか疑問に思ったことはありませんか?
例えば、勤労感謝の日などは”の”をつけた方が言いやすいですが、憲法記念“の”日とは言わず憲法記念日と言うように、建国記念日と“の”をつけない方が言いやすいですよね!
しかし、建国記念の日は必ず“の“をつけないといけません
どうしてなんでしょうか?
今回は建国記念の日の由来からその理由について解説をしていきたいと思います!
建国記念の日の由来
建国記念の日は現在「建国をしのび、国を愛する心を養う」日として、国民の祝日に関する法律によって定められている祝日ですが、この法律が定められた年(1948年)にはありませんでした
この時定められなかったのには建国記念の日の由来が関係しています
戦前、現在の建国記念の日である2/11は紀元節(きげんせつ)と呼ばれていました
紀元節というのはどういう日だったのかというと初代天皇である神武天皇が天皇に即位した日のことです
なぜこの日を紀元節という祝日したのかというと時は明治時代にさかのぼります
江戸幕府が滅亡し、明治新政府となった頃、政府は天皇を中心とした国家を作ることを目指していました
天皇制国家の確立を進めるのにあたって、その支配理念の根底を神武天皇としたかったため、神武天皇が即位した日を重視し紀元節という祝日は誕生しました
結果として紀元節が学校行事として公式化されたことや教育勅語によって天皇制国家というのは知らず知らずのうちに刷り込まれてしまったのです
そのようなことがあったから神風特攻隊のようなお国(天皇)のためには命をかけるという思想が生まれてしまったのですね
このような背景から、そもそも神武天皇という本当にいたのかもわからない人物の即位日という歴史的根拠の曖昧さと、第二次世界大戦における日本の超国家主義の意識と深く結びついていた祝日だったので、祝日が定められた当初の中に建国記念の日は入っていなかったのですね!
最終的に1966年に国民の祝日として制定されて、その翌年から実施されることとなりました
なぜのがつくの?
このような由来を踏まえてどうして“の“がつくのでしょうか?
結論を一言でいうと日本がこの日にできたわけではないからです!
日本っていつできたと思いますか?
正直私自身もわかりません笑
日本という国名は大化(645)よりあとで、大宝(701)の頃のある時期までに定められたと言われていますが、その詳細は現在もわかっていません
また江戸時代などにあなたはどこの国の人ですか?と聞くと、日本ではなく、薩摩や長州といった藩の名前を答えると思います
このように日本が成立した時期が曖昧かつ、元々は神武天皇の即位した日という意味であったため、日本ができた日だと勘違いしないように建国記念“の“日と言うんです!
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は建国記念日と言わず建国記念の日という理由を由来などから解説してみました!
誰もが知っている祝日の由来とかを聞くと面白いですよね笑
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
また明日も社会にまつわるちょっとした話を紹介したいと思いますので、ぜひみてください!
室町時代をものすごーくざっくり解説
みなさんこんにちは那津です!
今日は当ブログで一番人気のざっくり解説シリーズ第2弾「室町時代編」をお届けしたいと思います!
各時代を説明する記事はたくさんありますが、内容が濃いものが多く、ある程度歴史を理解している人ではないと難しいと思います
ざっくり解説シリーズでは歴史をあまり知らなくてもこの時代ってどんな感じだったのかというのがわかるようにものすごーくざっくりと説明をしますのでぜひ最後までご覧ください!
また第1弾の「鎌倉時代編」を見ていない方はぜひ見てください!
室町時代の概要
室町時代というものをざっくり分類すると
(2)足利義満の時代
(4)戦国時代
の4つに分けることができます
つまり室町時代ってどんなことがあった??と聞かれたら
後醍醐天皇の建武の新政がひどくて足利尊氏が反乱を起こして、室町幕府ができて、足利義満が色々頑張って、足利義政のせいで応仁の乱が起きて、戦国時代が始まったといえばなんとなく正解なんです笑
それではそれぞれ簡単に説明をしていきたいと思います!
なお(4)戦国時代は安土桃山時代と大きくかぶるので「安土桃山時代編」のときに紹介をしたいと思います!
(1)建武の新政と室町時代の始まり(足利尊氏の時代)
①鎌倉時代の終わり
まずは鎌倉時代の終わりについて説明します!
鎌倉時代末期、元寇の際、十分な褒美をもらうことができなかったなどの理由から鎌倉幕府に対して御家人たちは不満をつのらせていました
そのことを知った後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼそうと御家人たちに呼びかけました
その呼びかけに応じた足利尊氏や新田義貞などの活躍によって鎌倉幕府は滅亡してしまいました
鎌倉幕府の終わりを簡単に説明するとこんな感じになります!
②建武の新政と室町時代の始まり
鎌倉幕府が滅亡すると次は誰が政権を握るのでしょうか?
それは呼びかけを行った後醍醐天皇ですよね!
後醍醐天皇は京都に戻って新しい政治を始めました
それこそが武士などから不満が続出した建武の新政です!
どうして不満が続出したのでしょうか?
それは天皇中心の政治をまた始めようとしてしまったからです
この時代の中心にいた身分は誰でしょうか?
武士ですよね!
完全に武士の世の中になっているのに今さら天皇中心の世の中に戻そうというのはお門違いもいいところです
結局不満が爆発し、最終的には鎌倉幕府滅亡の際ともに戦った足利尊氏によって京都を制圧され建武の新政は終わってしまいました
そして尊氏は幕府を開く目的のもとに当面の政治方針を明らかにした建武式目というものを発表し、室町時代が始まりました!
室町時代の始まりは建武式目が発表された1336年という説と尊氏が征夷大将軍に任命された1338年とする説がありますが、これは鎌倉幕府の始まりにも繋がる難しい問題なのでとりあえず今回は一番早い1336年としておきます
鎌倉幕府の始まりについて詳しく説明した記事もありますのでぜひご覧ください!
(2)足利義満の時代
3代将軍足利義満が行ったことは
の2つだけ抑えておけば大丈夫です!
ちなみに室町幕府というのは義満が京都の室町という場所に花の御所というものを作って、ここで政治を行ったことが由来なんですよ
①南北朝の統一
義満が行ったことの一つ目は南北朝を統一したことです!
南北朝って突然何の話?という感じだと思いますのでまずはそこから説明をしたいと思います!
武士などから不満が続出した建武の新政を行った後醍醐天皇ですが、尊氏に京都を制圧されたときに三種の神器を持って京都の南の方にある吉野に逃げてしまったんです
三種の神器というのは天皇の証であってこれを持っているから私が天皇であると後醍醐天皇は言い張ったんです
もうめちゃくちゃですよね笑
それに対抗して尊氏は京都で新たに天皇を即位させてこっちが本当の天皇だと言い張ります
尊氏側を北朝、後醍醐天皇側を南朝として二つの朝廷(天皇)がいる事態になってしまったんです
この時代を南北朝時代と呼び、この問題を解決したのが義満で、それを南北朝統一といいます!
②勘合貿易(日明貿易)
義満が行ったことの二つ目は勘合貿易(日明貿易)を始めたことです!
この貿易は日本と明(中国)の間で行われたものです
鎌倉時代を振り返ってみましょう
当時中国は元と呼ばれ、日本に2回も攻めてきました
民間同士の貿易はあったかもしれませんが、正式な貿易をしているわけありませんよね笑
義満は明からの呼びかけに応じて貿易を開始しました
そのとき勘合というものを用いて貿易を行ったので勘合貿易といいます!
日明貿易と勘合貿易は同じ意味なのでどちらを使っても問題ないですが、両方と知ってくと日本と明との間で勘合を使って行われた貿易と覚えられるので便利ですね!
勘合というものを簡単に説明すると正式な貿易船と倭寇(海賊)を区別するために使われた板のことです!
(3)足利義政と応仁の乱
8代将軍足利義政はもともと政治よりも文化が好きな人物で、この時代幕府の実権
は妻である日野富子が握っているようなものでした
そして次期将軍について考えているころ、義政と富子の間には子どもがおらず、当時出家していた義視を還俗させて次の将軍にしようとしていました
しかしそんな時に子義尚が生まれてしまうのです
義視と義尚のどっちを次の将軍にするの?という問題や、当時将軍の補佐役である管領の家督争いに、幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元と山名持豊が介入したため、11年間に及ぶ応仁の乱が始まってしまいました!
応仁の乱は各地の有力な守護大名(力を持った県知事みたいな人)が京都に集まって戦いました
その頃守護大名が治めていた領国は守護代(副知事みたいな人)などが代わりに治めましたが、11年も代わりをしていたらもうそれは自分の国だと思ってしまいますよね笑
このように立場の下のものが上のものの勢力をしのいでいく下剋上というものが流行り始めたため応仁の乱が戦国時代の幕開けとされるんです!
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は室町時代をざっくりと解説してみました!
室町時代にはもっとたくさんの出来事があるのでこれだけで全てを理解できたとは言えませんが、おおまか流れを知っていることによって細かい内容も整理しやすくなるのではないかと思います!
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
ざっくり解説シリーズは定期的に更新をしていくつもりなので今後もぜひみてください!
またざっくり解説シリーズ「鎌倉時代編」をまだ見ていない方を下のリンクからご覧ください!
女性天皇=中継ぎ は嘘!?歴代の女性天皇について解説します
みなさんこんにちは那津です!
昨日に引き続き今日も歴史にまつわるちょっとした話をしたいと思います!
今日は女性天皇についてです!
みなさん天皇になった女性は今まで何人いると思いますか?
なんと8人しかいないんです!
皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する
と書かれているように現在女性が天皇になることは法律上できません
このように天皇=男性 というイメージがついてしまっている中で女性天皇はよく中継ぎの天皇と表現をされたりします
しかし本当に女性天皇は全員中継ぎなのでしょうか?
今回は歴代の各女性天皇について簡単に説明をしながら女性天皇は本当に中継ぎなのか考えて行きたいと思います!
①推古天皇
推古天皇は593年から628年まで在位していた天皇で女性初の天皇としてみなさんも聞いたことがあるのではないでしょうか?
推古天皇は聖徳太子を摂政として冠位十二階を制定したり、十七条の憲法の制作、遣隋使の派遣、「天皇記」「国記」製作などを行いました
この時代は聖徳太子(うまやどおうじ)と蘇我馬子の二人が政治の実権を握っていたので二頭の馬が推古天皇を引っ張っていたと言われたりします
この表現の仕方面白いですよね笑
②皇極天皇・斉明天皇
皇極天皇・斉明天皇は特殊な人物で今まで二人だけしか例のない天皇に二度即位した人です!
皇極天皇としては642年から645年まで、斉明天皇としては655年から661年まで在位をしていました
皇極朝の頃の出来事としては聖徳太子の子どもである山背大兄王を蘇我入鹿が襲い、自殺させる事件などがありました
斉明朝の頃の出来事としては阿倍比羅夫が蝦夷を討事件などがありました
ちなみに斉明天皇は百済救済のために中大兄皇子(後の天智天皇)らと筑紫にいきましたが、朝倉橘広庭宮で急死してしまいました
③持統天皇
持統天皇は686年から697年まで在位していた天皇で天武天皇の正妻です!
実は天武天皇が建てたとされる薬師寺は持統天皇が病気だったときに回復を願うために作られたんですよ
優しいですよね笑
持統朝の頃の出来事としては飛鳥浄御原令の施行や藤原京への遷都があります
また天皇としては官制の整備、百官の遷任、戸籍の一つである庚寅年籍の作成など律令制度の完成に力を尽くしました!
④元明天皇
元明天皇は707年から715年まで在位していた天皇で主な出来事に皇朝十二銭の始まりである和同開珎の鋳造や奈良時代の始まりである平城京への遷都、出羽国、大隅国の設置、蓄銭叙位令の施行や古事記の完成などがあります!
⑤元正天皇
元明天皇は715年から724年まで在位していた天皇で主な出来事に藤原不比等による養老律令の作成や百万町歩の開墾計画、三世一身の法や日本書紀の完成などがあります!
⑥孝謙天皇・称徳天皇
孝謙天皇・称徳天皇は二人しかいない重祚をして二度天皇になった人物です!
孝謙天皇としては749年から758年まで、称徳天皇としては764年から770年まで在位していました
孝謙朝の頃の出来事としては養老律令の施行や橘奈良麻呂の変、東大寺大仏開眼供養などがあります
称徳朝の頃の出来事としては恵美押勝の乱があります
称徳天皇は道鏡というお坊さんが好きすぎて太政大臣禅師や法王などの高い地位を与えてついには天皇にまでしようとしたんですよ笑
しかし宇佐八幡信託事件によって道鏡が天皇になることはなくなりました
このような事件があったためこの時代のことを書いた続日本紀は女性天皇のことをあまりよく書かなかったりするんです
ここからの天皇は江戸時代に即位した人物でこの二人に関しては完全に中継ぎとしての天皇です
⑦明正天皇
明正天皇は1629年から1643年まで在位していた天皇で父である後水尾天皇が紫衣事件のため、突然譲位をしてしまったことによってピンチヒッターとして即位をしました
しかし天皇になっても父の後水尾上皇が院政をしていたため実権はありませんでした
⑧後桜町天皇
後桜町天皇は1762年から1770年まで在位していた人物で前天皇である桃園天皇が崩御(亡くなった)際に次期天皇(後桃園天皇)が幼少であったため、その成長まで皇位を継いでいました
女性天皇=中継ぎ?
女性天皇をこれまでみてきましたが果たして女性天皇は中継ぎの天皇でしょうか?
結論から申し上げますと必ずしも全ての女性天皇が中継ぎであるとはいえないと思います!
例えば推古天皇の場合30年以上在位し続けています
中継ぎの天皇なのにこれだけの期間在位し続けることがあるでしょうか?
持統天皇の時には藤原京に、元明天皇の時には平城京に遷都しています
中継ぎの天皇の時代にこのような一大プロジェクトを行うでしょうか?
たしかに江戸時代の二人の女性天皇のように完全に中継ぎとしての天皇は存在します
しかしそれは男性天皇であっても起こり得ることであって、例えば院政全盛期では上皇が実権を握っていたため、その時代の天皇は飾りのようなものです
このようなことを踏まえると女性天皇は中継ぎの天皇であるという考え方は改める必要があるのではないかと思います
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は女性天皇の立場について考えてみました
女性天皇=中継ぎという考え方はジェンダー論にも繋がる話題だと思うので慎重に考える必要がありそうですね
拙い文章でしたが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
また明日も歴史にまつわる話をお届けしたいと思いますのでよかったらぜひ見てください!
鎌倉幕府の始まりはいつ?6つの説を解説します
みなさんこんにちは那津です!
今日も歴史にまつわる話をしていきたいと思います!
今日紹介する内容は鎌倉幕府成立の時期についてです!
昔は「1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせが主流でしたが、最近では「1185(いいはこ)つくろう鎌倉幕府」が主流になりつつあります
では一体いつ鎌倉幕府が誕生したのでしょうか?
実は鎌倉幕府成立の時期に関しては下の6個の説があるんです!
多いですよね笑
①1180(治承4)年11月 頼朝が侍所を設置したとき
②1183(寿永2)年10月 頼朝の東国支配権を朝廷が事実上承認したとき
③1184(元暦元)年10月 頼朝が公文所・問注所を設置したとき
④1185(文治元)年11月 頼朝が守護・地頭の設置権を獲得したとき
⑤1190(建久元)年11月 頼朝が右近衛大将に任命されたとき
⑥1192(建久三)年7月
頼朝が征夷大将軍に就任したとき
そこで今回は鎌倉幕府が成立したといわれる各時期についてみながら鎌倉幕府が成立した時期はいつなのか考えていきたいと思います!
- ①1180(治承4)年11月 頼朝が侍所を設置したとき
- ②1183(寿永2)年10月 頼朝の東国支配権を朝廷が事実上承認したとき
- ③1184(元暦元)年10月 頼朝が公文所・問注所を設置したとき
- ④1185(文治元)年11月 頼朝が守護・地頭の設置権を獲得したとき
- ⑤1190(建久元)年11月 頼朝が右近衛大将に任命されたとき
- ⑥1192(建久三)年7月 頼朝が征夷大将軍に就任したとき
- 結局鎌倉幕府はいつ始まった?
- まとめ
①1180(治承4)年11月 頼朝が侍所を設置したとき
侍所とは御家人の統制や現在の警察のような働きをする機関です!
侍所の具体的な仕事は、非違を検断(違法を指摘)し罪人を罰したり、幕府の宿直警衛を行うことであり、また戦時に際しては軍奉行となり御家人を統轄していました
また侍所の長官のことを別当というのですが、幕府における別当の地位は高く、御家人の総元締ともいうべき要職であったとも言われています!
侍所を設置したことによって鎌倉幕府の基礎とも呼べる警備隊としての機能が生まれました!
また侍所を設置したことにより源頼朝は鎌倉幕府の中枢とも言える関東南部の実質的支配を始めたのでこの時期が鎌倉幕府の始まりなのではないかと言われるようになりました!
②1183(寿永2)年10月 頼朝の東国支配権を朝廷が事実上承認したとき
この出来事は寿永二年十月宣旨として歴史の教科書などに載っているのですが、簡単にいうと朝廷が頼朝に対して正式に東国支配を認めたという内容です!
今までは実力で東国を支配していましたが、今でいうと許可なしで勝手に国を作っているようなものであり、言ってしまえば非合法的なものでした
しかしその東国の支配をこの時代の権力者である朝廷から認められるということは正式な組織であるという後ろ盾を天皇からもらったようなものです
だからこの時期が鎌倉幕府の始まりなのではないかと言われるようになったんですね!
③1184(元暦元)年10月 頼朝が公文所・問注所を設置したとき
公文所は後に政所と呼ばれるようになりそちらの方が親しみがあると思いますが、簡単にいうと財政の最高機関のこと、問注所というのは簡単にいうと今の裁判所です!
これによって侍所・政所・問注所という鎌倉幕府の中枢機関が全て整ったのでこの時期にかまく幕府が成立したのではないかと言われています!
④1185(文治元)年11月 頼朝が守護・地頭の設置権を獲得したとき
守護というのは国ごとに任命される役職で、治安維持のため軍事・警察権を行使する地方官のことです
簡単にいうと現在の都知事や県知事みたいな立ち位置の人です!
地頭というのは各国の荘園や公領に設置された役職で、土地の管理や年貢の徴収、治安維持などを行う人です
簡単にいうと今の町内会の会長みたいな立ち位置の人です!
今までは支配するときに勝手に幕府側が各国に派遣をして支配させていましたが、朝廷から正式な役職として守護と地頭という立場を設置することを認められました
これによって鎌倉幕府の基本的な体制が整ったとされるためこの時期に鎌倉幕府が成立したとされるんですね!
⑤1190(建久元)年11月 頼朝が右近衛大将に任命されたとき
右近衛大将とは右近衛府の長官の人のことを指し、簡単にいうと朝廷の警備隊のトップのような立ち位置です!
この役職は源頼朝が鎌倉に帰らせないために朝廷側が任じたなどと言われますが、すぐに頼朝はこの役職を辞めてしまいます
しかし警備隊のトップと朝廷から正式に言われたようなものですので、警備的役割の大きい鎌倉幕府がこの時期に成立したと言われるのですね!
⑥1192(建久三)年7月 頼朝が征夷大将軍に就任したとき
征夷大将軍とは朝廷から任じられる武士の最高職です!
元々の意味は全く違かったのですが、名誉職として残り続け、将軍になる人は皆この役職に任じられます
江戸幕府が始まったのが徳川家康が征夷大将軍となったことであったりと、区切りがとても分かりやすいので今まで「征夷大将軍に任命される=幕府が開かれる」という認識があり、この時期が鎌倉幕府の成立であったと言われていたのですね!
結局鎌倉幕府はいつ始まった?
結論を申し上げますとこの時期から始まったと明確に断言することはできません!!
上に見てきたようにいつから鎌倉幕府ができていたのかというのは研究者の立場などそれぞれの歴史的事象の解釈の仕方によって変わってくるので明確にこの時期から始まったとはいいきれないですし、この先も決めることはできません
ですので鎌倉幕府ができたのはいつ?と聞かれたら大体12世紀の終わりらへんと答えるのが最も適切であると思います
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は鎌倉幕府の成立時期について説明をしてみました
鎌倉幕府の始まりは明確にはできないと言いつつも個人的には1192年の源頼朝が征夷大将軍になった時としてくれた方がわかりやすいしいいかなーって思ってます笑
みなさんはいつ鎌倉幕府が始まったと思いますか?
よかったら教えていただけると嬉しいです
拙い文章ですが、ここまでお読みいただきありがとうございました!
また明日も歴史にまつわる話をしていきたいと思いますのでよかったらぜひみてください!
鎌倉時代をものすごーくざっくり解説
みなさんこんにちは那津です!
今日も歴史にまつわる話をしていきたいと思います!
今日は今までと少しうってかわって鎌倉時代というものをものすごーくざっくりと説明しようと思います!
鎌倉時代を説明する記事はたくさんありますが、内容が濃いものが多く、ある程度歴史を理解している人ではないと難しいと思いますので今回は歴史をあまり知らなくても鎌倉時代ってどんな感じだったのかというのがわかるように簡単に説明をしたいと思います!
鎌倉時代というものをざっくり分類すると
①鎌倉幕府成立
②北条氏の台頭と承久の乱
③元寇(蒙古襲来)
の3つに分けることができます
つまり鎌倉時代ってどんなことがあった??と聞かれたら
鎌倉幕府ができて北条氏が力を持って天皇と承久の乱でバトルして元から日本を守ったといえばなんとなく正解なんです笑
それではそれぞれ簡単に説明をしていきたいと思います
①鎌倉幕府成立
最初に紹介するのは鎌倉時代最初の出来事である鎌倉幕府の成立についてです!
鎌倉時代が成立した時期については1192(いいくに)や1185(いいはこ)を始めとして様々な説がありますが、どこを鎌倉幕府の始まりとするのかは立場によって異なっているため一概にこの年から!とは言えないのでだいたいこのくらいの時期ぐらいの認識で大丈夫です!
鎌倉幕府の成立時期に関してはまた詳しく説明したいと思うので興味のある方はぜひ見てください!
鎌倉幕府の成立と切っても切れない出来事というのはあの有名な源平合戦です!
源平合戦を簡単に説明すると源氏vs平氏という武士一族同士の争いです
平氏の大将は平清盛、源氏の大将はこの鎌倉幕府を作った源頼朝です!
あれ、源義経が一番偉いんじゃないの?って思った方もいたかもしれませんが、義経は頼朝の弟であり大将ではなく源氏最強戦力みたいな立ち位置の人物です
話を戻すと源平合戦に勝利した源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開きました
②北条氏の台頭と承久の乱
鎌倉時代=源氏の時代という認識が強いですが、実は北条氏の時代なんです
北条氏っていったい誰なの?というと将軍の補佐役である執権という立場にいた一族です
つまり鎌倉時代というのは将軍の右腕の人物に幕府を奪われてしまった時代なんです
事実鎌倉時代の将軍というのは全部で9人いますが、そのうち源頼朝直系の将軍は3代目まででその後将軍はお飾りみたいな立場なんです笑
なので鎌倉時代をもう少し詳しく整理するときには執権の人物ごとに整理すると結構わかりやすいです!
北条氏の世の中のなりつつある世の中で天皇による反乱がありました
これがなぜ起きたのかというと鎌倉時代の前の平安時代までは天皇を始めとする貴族の世の中だったのに鎌倉時代になって突然武士という脳筋な人たちが国を支配しようとしていたからです
ごく当たり前の考えですよね笑
結局後鳥羽上皇側は負けて鎌倉幕府の勢いを加速させることになりました
③元寇(蒙古襲来)
鎌倉時代も後半頃にある国から2度攻められることになります
それこそが元です!
元とは中国の王朝の名前ですが、この時代モンゴル帝国に支配されて宋から名前が変わりました
モンゴル帝国というのはチンギスハンが作った超巨大帝国のことです
事の発端は8代執権北条時宗の時にモンゴル帝国に服従しろという通達を無視したことが原因ですが、断るのは当たり前ですよね笑
戦力的には圧倒的に元の方が上ですが、奇跡が2回起きました
それこそが神風です!
神風によって元から来た船が沈没して日本が勝利?しました
もしこの風が吹いてなかったらと考えると本当に奇跡ですよね笑
元からの侵攻を防いだのはいいのですが、なにせ防衛戦であったため新たな領土を獲得できず、御家人たちに十分な報酬をあげることができませんでした
このような出来事などもあって鎌倉幕府は次第にガタガタになっていき最終的には滅亡してしまいます
まとめ
いかがでしたでしょうか?今回は鎌倉幕府というものをざっくりと説明してみました
拙い文章で読みづらかったかと思いますが、ここまでお読みいただきありがとうございました
鎌倉時代にはもっとたくさんの出来事があるのでこれだけで全てを理解できたとはなれませんが、おおまか流れを知っていることによって細かい内容も整理しやすくなるのではないかと思います
また個人的な目標ですが、三日間毎日更新することができました!
ごく小さな目標ですが次は一週間毎日更新できるように頑張りたいと思います!