natu_oggi’s blog

都内に住む社会科(主に歴史)が得意な大学生 歴史にまつわるちょっとした雑学や簡単な解説を誰でもわかるように説明します!

ペリー来航の秘密

みなさんこんにちは那津です!

昨日に引き続き今日も歴史に関する話を書いていきたいと思います!

wikipediaより引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%BC

 

今回紹介するのはペリー来航にまつわる話です!

ペリー来航とは1853年マシュ・ペリー率いる艦船(黒船)4隻が浦賀(神奈川県)に来航した事件です!

この出来事を契機として翌年1854年には日米和親条約、1858年には不平等条約である日米修好通商条約を結んでしまうことになりますが、今回は1853年のペリー来航のみに焦点を当てて二つ話を紹介したいと思います!

 

まず一つ目はペリーの乗ってきた黒船についてです!

ペリーが来航した時に乗っていた船は防水や腐食防止のため黒いタールで塗られており、また煙を吐きながら海面を進んでいる姿は、それまで日本に訪れていたイギリスやロシアの船とは違うものであり、日本人を驚かせました

 

そのときの様子を表す狂歌としてこのようなものがあります

 

泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四盃で夜も寝られず

 

上喜撰とは宇治(京都府)の高級茶のことを指します

この狂歌を意訳すると「お茶をたった四杯だけで寝れなくなってしまう」という意味ですが、もう一つの意味は「蒸気船が四隻きただけでも夜も寝られないぐらいになってしまう」という未知なるものに対する恐怖心を表していることがわかります

このようにペリー来航というのは日本人に大きな衝撃を与えたのですね!

 

ちなみにペリーが乗ってきた船の名前は「サスケハナ号」といいます

ものすごく日本を意識したような船の名前ですが、実はアメリカ北東部を流れる川「サスケハナ川」からとったものなのです!

偶然なのかもしれませんが、不思議ですよね笑

 

二つ目はペリーがアメリカに帰国する際に一緒にアメリカに連れて行ってほしいといった人物がいたことです!

 

鎖国体制においてそのようなことはするのは重罪であり、もしかしたら死刑になってしまうかもしれません。

しかしそれでもアメリカにいこうとした冒険的な人物はずばり吉田松陰です!

 

吉田松陰とはどこかで聞いたことあるのではないでしょうか?

 

この人物は初代内閣総理大臣として有名な伊藤博文や、3代・9代内閣総理大臣である山県有朋奇兵隊を組織したことで有名な高杉晋作などを輩出した超エリート塾の松下村塾を運営していた人です!

 

ちなみに吉田松陰松下村塾というイメージが強いですが、実は松下村塾自体を作ったのは吉田松陰の叔父なんです笑

とはいえ明治時代で活躍する数々の人材を育成してきたことは間違いないのでそのような力の秘密には鎖国時代にアメリカにいくという先進的な考えが必要であったのかもしれませんね

 

この吉田松陰の申し入れにペリーはどう答えたのかというと結論としては一緒に連れていってもらませんでした。

なぜかというと日本と外交関係を結ぼうとしている中でこのような禁忌に手を貸すことはできないからとのことです

ごく当たり前の返事でありますが、ペリー来航の裏側にはこのような出来事もありました

 

いかがでしょうか。今回はペリー来航にまつわる話を二つ説明してみました。

拙い文章で読みにくかったかと思いますが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

また明日も歴史にまつわる話をしていきたいと思いますので読んでいただけると嬉しいです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御家人の違い

どうもみなさん初めまして那津です!

文章を作る習慣をつけたいという目標からブログを開設してみました!

すぐに飽きてしまう性格なのでまずは3日間書けるように頑張りたいと思います!

このブログで書きたいテーマについてですが、私自身歴史がとても好きで一生使うことのない無駄な知識がたくさんあるので最初はそれを成仏させたいと思います笑

間違っている部分もあるかもしれませんが多めにみてください汗

 

 

さて最初に紹介するのは「御家人」という言葉の意味の違いについてです!

みなさんは御家人という言葉を聞くと何をイメージするでしょうか?

おそらく「武士」というのをイメージしたのではないのでしょうか

確かにその認識は間違いありません

そもそも「御家人」という言葉は「家人」という言葉に「御」をつけたものです。

ではなぜ「御」という字がつくようになったのでしょうか?

 

ここからは御家人の意味と違いについて詳しく説明していきます

まず「御家人」という言葉の成り立ちについてですが、前述したように「家人」という言葉に「御」という丁寧な表現をつけたものです。

「家人」とは棟梁(武士団長のような人)に忠誠を誓う家臣(武士)の人のことを指します。ではなぜその家臣に「御」という表現をつけるのでしょうか?

それはズバリ偉い人に仕えているからです!

その偉い人とは誰でしょうか?

それはあの源平合戦に勝利し鎌倉幕府を開いた源頼朝です!

つまり鎌倉時代において源頼朝を始めとする源氏一族と直接主従関係を結んだ家臣のことを敬意を込めて「御家人」と表現したのです!

これは鎌倉時代における「御家人」の意味でした。

 

しかし江戸時代になるとその意味は変化します。

江戸時代における「御家人」とは「石高が1万石未満の将軍直属の家臣(幕臣)のうち将軍に御目見えする(会う)ことができない武士」という意味です!

少し意味が異なっているのがわかるでしょうか?

ちなみに石高が1万石以上の幕臣を「大名」、石高が一万石未満で将軍に御目見えすることができる幕臣を「旗本」と言います!

どちらも将軍直属の家臣という点では一致していますが、江戸時代の御家人の方が将軍と距離が離れているように思えます。

鎌倉時代の場合、将軍←御家人という関係でしたが、江戸時代になると将軍←大名←旗本←御家人というように立場が低くなっています!

 

いかがでしたでしょうか。今回は御家人の意味の違いについて説明をしてみました!

拙い文章で分かりにくかった思いますがお読みいただきありがとうございます!

また明日も投稿をしますので読んでいただけると嬉しいです!