ペリー来航の秘密
みなさんこんにちは那津です!
昨日に引き続き今日も歴史に関する話を書いていきたいと思います!
今回紹介するのはペリー来航にまつわる話です!
ペリー来航とは1853年マシュ・ペリー率いる艦船(黒船)4隻が浦賀(神奈川県)に来航した事件です!
この出来事を契機として翌年1854年には日米和親条約、1858年には不平等条約である日米修好通商条約を結んでしまうことになりますが、今回は1853年のペリー来航のみに焦点を当てて二つ話を紹介したいと思います!
まず一つ目はペリーの乗ってきた黒船についてです!
ペリーが来航した時に乗っていた船は防水や腐食防止のため黒いタールで塗られており、また煙を吐きながら海面を進んでいる姿は、それまで日本に訪れていたイギリスやロシアの船とは違うものであり、日本人を驚かせました
そのときの様子を表す狂歌としてこのようなものがあります
泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四盃で夜も寝られず
上喜撰とは宇治(京都府)の高級茶のことを指します
この狂歌を意訳すると「お茶をたった四杯だけで寝れなくなってしまう」という意味ですが、もう一つの意味は「蒸気船が四隻きただけでも夜も寝られないぐらいになってしまう」という未知なるものに対する恐怖心を表していることがわかります
このようにペリー来航というのは日本人に大きな衝撃を与えたのですね!
ちなみにペリーが乗ってきた船の名前は「サスケハナ号」といいます
ものすごく日本を意識したような船の名前ですが、実はアメリカ北東部を流れる川「サスケハナ川」からとったものなのです!
偶然なのかもしれませんが、不思議ですよね笑
二つ目はペリーがアメリカに帰国する際に一緒にアメリカに連れて行ってほしいといった人物がいたことです!
鎖国体制においてそのようなことはするのは重罪であり、もしかしたら死刑になってしまうかもしれません。
しかしそれでもアメリカにいこうとした冒険的な人物はずばり吉田松陰です!
吉田松陰とはどこかで聞いたことあるのではないでしょうか?
この人物は初代内閣総理大臣として有名な伊藤博文や、3代・9代内閣総理大臣である山県有朋、奇兵隊を組織したことで有名な高杉晋作などを輩出した超エリート塾の松下村塾を運営していた人です!
ちなみに吉田松陰=松下村塾というイメージが強いですが、実は松下村塾自体を作ったのは吉田松陰の叔父なんです笑
とはいえ明治時代で活躍する数々の人材を育成してきたことは間違いないのでそのような力の秘密には鎖国時代にアメリカにいくという先進的な考えが必要であったのかもしれませんね
この吉田松陰の申し入れにペリーはどう答えたのかというと結論としては一緒に連れていってもらませんでした。
なぜかというと日本と外交関係を結ぼうとしている中でこのような禁忌に手を貸すことはできないからとのことです
ごく当たり前の返事でありますが、ペリー来航の裏側にはこのような出来事もありました
いかがでしょうか。今回はペリー来航にまつわる話を二つ説明してみました。
拙い文章で読みにくかったかと思いますが、ここまでお読みいただきありがとうございました。
また明日も歴史にまつわる話をしていきたいと思いますので読んでいただけると嬉しいです!